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unsplash-logoBilly Huynh

2月某日をもって禁酒することにした。3週間ほどアルコールのないクリーンな状態が続いていて、今のところ、まったく飲みたいという気にならない。 この変化は自分でも驚くべきだ。この記事では、禁酒にあたって、なにをしたのかを具体的に書いて、体験を多くの人に共有したいと思う。

禁酒直前の日々

実のところ、酒をやめるまでは、自分は依存症であると深刻に悩んでいた。 医者にかかって、ジスルフィラムなどのピルを処方してもらい、薬の力でアルコールを減らそうかと考えたこともある。 しかし、誰にも打ち明けることはできず、とまどいながらも、酒を飲み続けていた。

毎日、昼は飲まないようにつとめて、夕方にやってくる一本目のビールを、とりつかれたように楽しみにしながら、一日を過ごしたものだった。 そして、その日の一本目を空けたが最後、ビールを2〜3缶開け、ワインや、ジン・ウイスキーなどのスピリッツに入っていく。夜も更け、23時を回った頃、泥酔して床につく。 アルコールが大量に入っているので、入眠は早いが、口腔内のアルコールが水分を奪い取り喉がからからになって、朝方の眠りは浅い。水の欲しさに耐えきれなくなって目を覚ましたとき、頭がぐらぐらしていて、身体も重い。朝は酒を悔いるが、午後になるとまた今日の一本目に心を躍らせる。

こんな生活をずっと続けてきたのだった。

わたしのアルコール人生

禁酒の話に入る前に、これまでの酒とのつきあいについて振り返っておきたい。酒に溺れていく人は、多かれ少なかれ似通った道を経て依存度を高めていくのだろうが、筆者の顛末を知った上で、自分の方が重度か軽度か判断するのも悪くはないだろう。

わたしが本格的に酒を覚えたのは、18歳の頃だ。高校生の頃にも、親が留守の間に家においてあったビールを隠れて飲んだことはあったが、けしておいしいとは思わなかった。「酒=おいしくていいもの」という価値観は、18歳でバーテンダーになった頃にはじまった。アルバイトという身ではあったが、いかにも酒場に集まってきそうな水商売のお姉さんや地元の中小企業のおじさんたち、そして近くの大学の学生たち。彼らがバーという一つの空間で、酒を酌み交わし、いとも楽しげに夜の時間を過ごしているのが、とてもまぶしく映った。その頃の自分は、大学生になりたてであったが、どうも学問に身が入らなくて、キャンパスでは根無し草のようにふらふらしていたので、昼の時間よりも、夜になってこのバーに出入りする方がよっぽど自分の人生のように思われたのだった。

20歳になる頃にはバーではたらくのはやめてしまって、新たな大学に入学しなおした。24歳のときに、海外留学し、人生ではじめて、とてつもない孤独と不安を感じた。カルチャーショックとホームシックから、引っ込み思案になってしまい、うまく友達を作ることもできず、ただ大学の講義になんとかついていく努力を続けた以外は、ひたすら図書館にこもり、自分だけの世界で本を読んだり創作をしてすごした。 あの頃に読んだ本、特に日本の小説のことはよく覚えている。日本語に飢え、母国とのつながりを藁でもつかむように求めていたのだった。そして、夜の時間、孤独と不安への癒やしを求めるように、ひとり酒を飲み始めたのもこの頃だった。一日をやっとのことで終え、寄宿舎に戻ってきたとき、わたしは冷えたビールで身体を冷やし、ウイスキーで身体を温めながら、キャンパスではまるで空気のように透明な自分という存在をひとり慰めていたのだった。

少しでも不安に襲われると酒に逃げるという夜の悪癖は、留学後も続いた。日本に戻ってからは、社会人になるべく就職活動の荒波に巻き込まれた。ここでもまた、適応能力の欠如という能力を存分に発揮して、とんちんかんな面接やエントリーシートをばらまいては、お祈りメールばかりを受け取っていた。将来への不安と自分は社会不適合者かもしれないという強い自己否認の感情が芽生えてきた。不毛な面接を終えて就活スーツを脱いだら直後、四畳半二間のぼろアパートに戻り、安ウイスキーを飲んで自分をひとり鼓舞した。就職活動に専念するためという建前でアルバイトもせずに過ごしていたので、ずいぶん金に困っていたように思う。ろくに食べものも口にしないで、ウイスキーのボトルを買っては、ストレートであおった。いまの妻に結婚を申し込んだのは、このぼろアパートで、もちろん酒に酔ってのことだった。

なんとか自分を拾ってもらえる会社がみつかり、わたしは社会人になった。酒好きであることに代わりはなかったが、就職と同時に結婚したこともあり、ひとりで酒に溺れるようなことはなかった。また、若いこともあって酔っても次の日には回復できていて、日常生活に支障をきたすことはなかった。

酒が深刻な問題になるのは、結婚して数年後、妻が単身赴任をはじめた頃だ。わたしは転職して、広告ベンチャーで働いていた。東京に2LDKを借り、ずいぶんダメだと思っていた就職活動時代から見れば、思いのほか人生はうまくいっていた。しかし、酒はずっと身近にあったし、むしろより距離を縮めていたとも言える。何もなくても飲んでいた。遠距離生活の独り身なので、家で飲んでから近くのバーで飲んだり、だれかと飲んでから家で飲んだり。酒と自分の生活は切り離せないものであった。日曜日の夜に飲み過ぎて、月曜日の朝にむくれ顔で出社したときなどは大いに反省して、二度と深酒はしないと決めたものだったが、その決意も夕方には吹き飛び、会社の同僚と繁華街に繰り出したりするのだった。

さらに転職をし、海外赴任をすることになる。ワインの安い国だったので、ここぞとばかり、毎晩のようにワインを一本空けていた。子供が産まれることになり、妻も呼び寄せた。しかし、酒はとまらない。無事に出産がすみ、一見、平和にみえる家族ではあったが、またしても適応能力の欠如を存分に発揮することになった。育児というハードな現実の変化に自分の生活をうまく調整できなかったわたしは、妻のいらだちを横目に、ほとんどアルコール依存症であるかのように飲んで、平淡な日常生活の静かな苦しみから目を背けていた。

おそらくはハウスダスト、あるいはダニがきっかけとなり、じんましんが発症して、引いたと思えば、次に顔にひどい皮膚炎を発症した。35歳のことである。いくら酒を飲んでいても、身体はまだ快活で、若さに満ちていた。しかし、皮膚炎がわたしの顔中を襲い、わたしの顔は一気に老けてしまった。目の色が濁り、肌のくすみが目立つようになる。さすがに炎症がひどいときは酒を控えた。肉体的なつらさだけでなく、顔という自分のアイデンティティでもある大切な部位が損なわれたことで、精神的なショックは大きい。鏡を見るたびに愕然とする日々だった。7月から10月頃まで、4ヶ月ほど飲まなかったと思う。これは自分の人生の中では、18歳以来、はじめてのことだっただろう。

しかし、肌の調子が改善され、日常生活が戻ってくると、じわじわと酒がまたわたしの生活に戻ってきた。冬が近づき、家にこもることも多くなり、またクリスマスや正月などのイベントがあることが、酒を飲む恰好の言い訳となった。

その後、酒をやめるといい断ち切っては、酒をはじめるという、つかず離れずの時期が来る。飲むときはひどく飲んだ。 最近の思い出では、先月の娘の誕生日、昼のごちそうが出たので、ここでビールを空け、夜に至るまで、ビールやワインをずっと飲んでいた。せっかくの娘の誕生日がまさかアルコールで記憶もおぼろげになるとは情けない。

冷静なときはやめたいと思っているのに、つい手を伸ばしてしまう。そうしているうちに、わたしは38歳になっていたのだ。18歳で酒を飲み始めて、早20年もの歳月が経っていた。

(後編に続く)

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