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ぼくは,数年前から,古今東西の古典と呼ばれるような作品をかたっぱしから読んでやろうというプロジェクトを始めている.夏目漱石やシェイクスピアはもちろん,長くて読了の道険しそうな「失われた時を求めて」や「戦争と平和」まで,人類がこれまで生み出し楽しんできた作品の中でも,特にキラリと輝いている古典作品を,とにかく自分自身で読んでみようと思い立ったのだ.もちろんあらゆる言語に堪能なわけではないので,翻訳ものはOKとするが,超訳や抄訳のたぐいは可能な限り避け,なるべく古典をそのままの形で楽しみ,その上で,何重にも重ねられてきた考察を楽しみたいと思う.

現在ぼくの古典読書リストには,707冊の本が並んでおり,そのうち既読となっているのは,125冊だ.およそ2割にも満たない数字である.リストはスプレッドシートで管理しているので,簡単な数式で,「もし毎月1冊ずつ読んだら,いつ全部の本を既読できるか」が簡単に計算できる.残りの本の数が,575冊なので,一月に一冊なら,このリストが制覇されるのは,なんと47年後!!になってしまう.

さすがにこれはまずい. 実はぼくは40才になったばかりなので,このペースでいくなら,87才になっている.あわよくばまだ生きていて,元気に活字を追えるのだとしても,遅すぎる.古典を繰り返し読んだり,せっかく身につけた教養を生かして,新たなチャレンジをしたり,人生の後輩たちになにかいい言葉をかけてあげたりしたいではないか.

それに,ぼくの古典リストは完全に自分の主観で選んでいるのだが,まだまだ伸びる気配がある.だって読んだこともないジャンルの本は,そもそも知り得ないし,西洋(特に西ヨーロッパ)中心で,19世紀以降の近代文学がどうしても多くなりがちという現状において,埋もれていた他の地域や年代の作品が,今後古典として新たにノミネートされることは十分に考えうる.特にアジアやイスラームの作品は,よほど飛び抜けたものでない限り,なかなか日本人の我々には題名すら聞こえてこない作品がおそらく数多くあるであろうことは想像に難くないし,また過去50年ほど,つまり1970年以降の現代文学は,評価の定まってないものも,再評価や再発掘を経て,古典入りする作品がどんどん出てくる可能性もある.そんな本も含めて,全部読んだことになって,はじめて「読破」ではないか.

そこでなんとか読書のペースを上げることとと,そのためのモチベーションの向上のために,毎月読んだ本とプロジェクトのステータスを公開していくことにした.

毎月3冊読めば,スピードは3倍,期間は1/3,つまり,16年後に終わることになる.これですら,ずいぶん壮大な計画であるに違いはないが,やってやれないことはない期間で終わることがわかった.

なら,これぞ我が人生の目標とばかりにやってやろうじゃないか.どうぞこれから16年間,どうぞお付き合いくださいまし.

現在の状況

  • 古典として登録された本の数: 707冊
  • これまで読んだ冊数: 125冊
  • 今月: 2冊
  • 残り: 580冊

2020年9月に読んだ古典

E・ブロンテ「嵐が丘」

エミリー・ブロンテが描いたもの,それは人間の強い強い愛や憎しみの感情である.主要登場人物であるヒースクリフの生きる根源は,自分をかつて憎んだものに復讐をしかえすという憎しみであったし,幼馴染のキャサリンへの愛情とその裏切られたことによる憎しみもまた,彼に生きる力を与えていた.教養はあれど,愛も憎しみもなくしてしまったヒンドリーやエドガーは,早々と生きる屍のようになっているし,キャサリンも精神がきたしてしまい,愛と憎しみが混同すると生きられなくなる.人間が生きる上で根源となるものは強い愛や憎しみであり,それをこのようにむき出しに生きた登場人物たちの生き様が壮絶で,読んでいて辛くなってくる.なぜそこまでして,人間は感情を持たねばならないのだろう?いっそ感情などないほうが,生きやすいはずなのに,一度これを失ってしまうと,もはやその者は魂の抜け殻となり果ててしまうのはなぜか?

オルハン・パムク「わたしの名は赤」

16世紀後半-17世紀のオスマン帝国における細密画の絵師たちの物語.とにかく,細密画にしろイスタンブールの町並みにしろ,描写がとても丁寧であり,まさに細密画のようであることが,この物語を傑作足らしめている所以.複数の話者が一人称で次々に語る構成で,かつミステリ仕立てで読みやすい.殺人事件を発端にした物語の中で,繰り返し芸術論における洋の東西の価値観の違いの中で,伝統を貫くのか新しい価値を受け入れるのかで葛藤する絵師たちの苦悩が描かれる.この点では,明治時代の日本の姿を描いた夏目漱石「草枕」のようなものが近いと言える.それにしても,美とは,本当に繊細なもので,美を生み出すことのなんと苦しみの多いことか,

古典以外

ディーリア・オーエンズ「ザリガニの鳴くところ」

「嵐が丘」が激しやすい「動」の性格を持つ者たちだとすると,こちらの主人公カイヤや「静」の性格を持つ者だ.しかし,その彼女の人生は波乱に満ちていて,彼女が幼い頃の境遇などは何度も辛くて読み進められなくなりそうなほどであった.それでも逞しく育った彼女であるが,一人で生きることの寂しさに倦んでおり,何度後悔してもやはり彼女は人を求めてしまう.そして,裏切られたり傷つけられたりして後悔する.彼女の生きた時代,男女差別も人種差別もまだそれが当たり前だった時代,人間の愚かしさとそれに引き換え,控えめながら美しい調和を保つ自然界の生き物たちの描写の対比が印象的だった.舞台は,ノースカロライナ.これまで場所もおぼつかない州だったが,本作品のおかげで,印象がすっかり変わった.

劉慈欣「三体」「三体 II」

現代人必読のSF.劉慈欣のすごいところは,あっと驚くようなSFの飛び抜けた発想とそれを支える物理などの知識,読むものにカタルシスを与えるエンタメ性,しっかりと描きこまれた心理描写による登場人物たちの魅力,もうあらゆるものが全部入りで入っている.これだけで,もう十分満腹なのに,さらに文化大革命という稀有な政治的歴史事件が残した一種厭世的なニヒリズムが低音で流れていて,もうこれは中国が舞台で中国人ではないと書けないようなSFになっていることだろう.

まぁ,難しいことはおいておいて,まずは読んで,不思議な体験をして,そして驚いてほしい.その後で再読するたびに,また別の面白さが見つかる.ホーガンの「月を継ぐもの」が1977年で,「三体」が2008年.もしかして,このレベルのどデカい作品,今後30年は出ないのではないかと危惧してしまうほど.

というわけで…

今月は2冊.来月は何冊になるかな

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